この話は、「私」という第三者の視点を借りて先生のことを語っている。
そして、最後の手紙は、最も多く先生のことを語り、最も多くの矛盾と葛藤に満ちている。
先生は、幽玄な印象を与える人である。
先生は、なぞめいた人である。
なぜか。
先生は、ほかの人に自分と言う人間を教えたがらないからである。
だが、先生にも人並みに感情はあるし、普段薄く見える理由は、
なにかベールに包んでいるからにすぎないのではないだろうか。
だがしかし、先生の手紙は長い。
初見の時、手紙が終わったら何か「私」が想うのだろうか?と想っていたわたしにとって、
手紙が終わらないまま最後まですすんだことにはびっくりした。
次の連載を志賀直哉が断り、引き伸ばしになったというが、
それでも必然性があるかのように見える。
長過ぎて、むしろ「私」と「先生」の今までより、むしろ主題となっている。
その中で先生が、私に伝えたかったこととは、それ全てなのだ。
伝えることは「私」のためである。
だが、私には、また先生のためでもないかと想う。
また、その前の先生の行動も気になる。どうして「私」に、死ぬと覚悟し、その直前に手紙を送ったのか。
そこまで語ろうとするのであれば、「私」に直接話したほうがいいのではないか。
自分には、あまりに一方的でエゴ的ではないかと思えた。
先生がこれでうまくまとめて言うことができたというのも、ある種の自分主義なのだと想う。
先生の自分主義は、分かりにくいけれど、確かにあると思う。
そしてその自分主義自体は、先生が見せたくない物なのだと思う。
先生は、他の人に自分を晒したくなかったのだろうと思う。
自身で語るように、他の人を嫌い、そして更に自分を嫌っているから。
だが、また、先生のほかの多くのことのように、これにも矛盾する部分があったように思える。
「先生の話」を欲する誰か、「私」に伝えることができたということは
先生にとって嬉しかったのではないだろうか。
先生は、先生が今の先生のようであるという所以を、多くは「悪」のせいだと言っている。
金により生まれる悪、それによる世の中への不信用。
世の中へのその不信用は、やがてお嬢さんと奥さんによってほぐされるも、
またお嬢さんと奥さん、そして親友のKと深く関わる事件がおこり、
今度は、自身へ負の感情が向かう。
それらの多くのもしゃもしゃしたことを時間をかけにかけて、そして先生はある種悟って
そして、手紙を書くことでそれを整理できたのではないだろうか。
先生は、誰にも言えなかったことを多くこの手紙の中に記している。
世の中への不信、その理由。また、自分自身への不信の理由。
Kに言えなかった、お嬢さんへの先生の情。そしてお嬢さんを好きなKに対しての思い。
それは先生が臆病だったから、そして、他の人の事を考えすぎてしまったから。
お嬢さんに言えなかった、Kの死んだ理由、そして自分の沈んだ理由。
『お嬢さんを白いままにしておきたかったから』という、お嬢さん、そして先生自身のための黙秘。
それらはすべて、手紙を通して「私」に伝えられるのだ。
なぜ、「私」にはうちあけたのだろうか?→○
あんなに気になっていた、あんなに一緒にいた、あんなに大好きなお嬢さんにも言わず、
言えない理由がお嬢さんほど強くないほかの人にも言わずの先生が。
その理由は、先生は「あなたは、真面目に生を知りたいと言ったから。」と明ける。
「私」が、先生と一緒にいるときに言った言葉である。
先生は、きっとこれに衝撃を受けたのではないかと想う。
何故自分にかまうのか、ということとともに。
先生が秘匿していることというのは、主に自分が厭世的なこと、そしてその主な理由となるKのことについてである。
金に関する悪については、おそらくほかの人にも幾分か開けられるとして、
Kについてのことは、恋に関する悪については、長い間先生の頭の中で渦巻いていたのではないだろうか。
そんな渦巻きが恋に関しての事で、Kは自殺したのだ。小さなナイフで。
(小さなという言葉に、なんだか「人はこんなにも簡単に死んでしまうのだよ」
と私は言われた気がした。)
○これは、それを打ち明ける機会であった。
先生は、はじめ積極的に過ぎる「私」を無視し、
次に真面目だと「私」に関心を向け、
そして最後に、「明治の終わり」を以って「私」に言葉を託していった。
私が先生に裏切られたと想ったときというのは、
先生が「金が、人を悪人にする」と言った時である。
俗的な答えが返ってくるとおもっていなかったから。
先生は可愛いひとだと想う。
なにかにつけ、懸命に悩んでしまう。
先生の想いはとても可愛いと思う。
宗教のような、というのはまさに的確な表現で、お嬢さんへの一途な気持ちは本当に綺麗なものだ。
それをとりまくものについてはそうでないといっても。
先生の、お嬢さんへの気持ちの箇所を読むたびにこちらも幸せに
なれるようなおもいだった。
この二人は、ある意味わかりあっているとおもう。
というか、互いに深読みしあっているのだと思う。
二人とも、自分が俗物であるなかれと思い、相手も俗物であるなかれとしている、と
感じているのではないか。
「こうおもわれはしまいか」
というのは、相手と自分への疑いだ。
この二人は、やはり二人とも漱石自身であると想う。
+α
人の本音を見せることは恥ずかしいし、
人の本音を見ることも恥ずかしい。
ただ倫理や哲学で見たところ、哲学者は「本音」を語るにつけ開き直りか引きこもりの面が強いように思える。対して作家はもう少しシャイな人が多いように思える。
だから夢、ロマンを描いたり、自分が思ったことを誰かに代弁させている場合も少なくないと思う。
漱石の人生を調べてみると、なんだか先生と重なるところが沢山あるように思える。
生家の環境、交友関係、先生と呼ばれ、英語に長けている「先生」。
大抵の物語は、自身や周囲の人物をモデルにして書かれているが、
その理由はモデルとなるものに、そもそも「語りたい題材」があったからだ。
漱石はこれで何を語りたかったのだろうか。
「後悔」が一番大きい様にも見えるが、それでも手紙を出すという最後の手段は
命綱を切る為に手を伸ばしつつも、その手を誰かが掴んでくれたら嬉しいという気持ちも確かにあったのではないかと思う。
人間は寂しい生き物だ。だが、とてもよくもわるくも幸せな生き物でもある。
日記なんて誰にも見せるものではない。それを見せるという時は、日記が八面玲瓏なものであるか、相手からどんな反応が返ってきてもいいという(なかばポジティブなかばネガティブな)感情があるかだろうと思う。
相手がどんな反応を返してもいいくらいに「崩すものがない≒相手のことがどうでもいい」か、
相手がどんな反応を返してもいいくらいに「崩れるものがないor崩されても構わない≒「崩す」ことさえ、この相手ならばしてもいいと思える」
私の場合はこの二択だった。
恐らく「先生」の場合も「私」に対しては、この二番目だっただろう。
「漱石」は、「ちゃんと読んでいる読者」に対しては、二番目だろうか。
曖昧な物語は特に、作者も、物語を薦めた人も、「読んだ人がどうとるか」を気にすることが多いと思う。
私達が、例えば
「この物語の後、私は間に合うのか?間に合ったとしたら、二人はどういった話をこれからしていくのか?」
…とでもいったような感想を言い、質問をしたらどうこたえてくれるのかを知りたい。
memo:
・子供ができないことを「呪い」と表現する先生
・先生の奥さんへの信仰心のような愛/それは恋とは違う?
・自分に自信が持てないから、周りの人に嫌われていると思っている?
→周りが嫌うならこちらも嫌おう?
「どうせいつかは嫌われるなら愛した人に憎まれるならそうなる前に僕の方から嫌った僕だった だけどいつかは誰かを求め愛されたいとそう望むならそうなる前に僕の方から 愛してみてよと」
・もちろん心地のよさを金でかっていたことはいなめないが、
そのコロの私にはそれを考えることもなかった。→年を取ってそれを考えるようになったのは幸か不幸か。
年を取ることで考え方が変わっていくという体験をしたからこそ、若い「私」に眩しさを見るのだろうか。
K:
精進すべきといいつつ、理想と行動とできていることがかみあっていない。若者どころか前世代共通のそれは、≒人間の姿でもある。
先生はそれも多分分かっていた。そして自分はkほど行動できるわけでもないから理想も低めにという気持ちが少しはあったかもしれない。
意地悪な心で何かをして、その後相手が予想以上に傷が深かったことを知ると後悔するということは、聖人でない限り、覚えがあるのではないか。
けれど相手が立ち直るのを見ると、その時こそ、自分が根ごと変化させられるようなそんな感覚を覚えるのではないか。