ペーパーウェイト・アイ
さかもと麻乃著
読みました。
マリエが、可愛くて、おとなしくて、子供っぽくて、痛々しくて、どくどくしくて、好きです。
こういう「自分のある姿と向き合う」系だと、結構『赦す』とか『受け入れる』とかが多いけれど
マリエはほぼ全編通して「自分の投影である我が子」を否定してばかりなんですね。それはもう胸が痛くなるほどに。そしてそれはある意味究極の過去の自分否定でもあるわけで・・。
屋敷の中でも、ほとんど『新しい自分』のマジェンカにばかり縋っていましたし
とにかく「普通じゃない」ところが垣間見える危うさ…それがマリエの可愛さだと思います。
そうまでしてずっと一緒に居たマジェンカが、結局また一つの『過去の自分』の姿に過ぎず、
マリエを守ってきたのもその『過去の自分』の性格に過ぎないというのは皮肉な話です。
記憶から消し去っていた『自分』の姿だから、ある意味『新しい自分』なのは間違いないのですが。
マジェンカの色である白は「過去を捨て新しく歩みだす」象徴ではなくて、「純粋な自己愛」。
純粋な自己愛だからこそマリエを守れたし、守るための強さも持ちえました。
その分マリエを傷付ける者、特にマリエを憎む『自己嫌悪』看護婦とは衝突することになったんでしょう。
顛末といいラストといい、赦しもなければ救いもほとんどありません。
過去を赦さないから過去からもまた赦されないってことなのかもしれません。
否定したい自分を投射することでしか人形を作れなかったマリエ。
「人形」を自身から吐き出すことでしか自分を表現できなかったマリエ。
最後のマリエの姿は「無」となってただ見守るだけの「白」だけれど、
腕に腕足がもげた人形を抱えた、まさに『人形のような姿』だけれど。
新しい自分にはなれましたね。マリエの自己完結に近い変身(≒自己否定)ですが。
とにかく徹底的な過去の自分の否定がマリエらしいところだったと思います。
過去の自分と決別したいがためにマジェンカに縋り、マジェンカでさえも過去の自分の姿であるとわかったらマジェンカの働きを止めようとしてしまう彼女はエゴイスティックで、けれどだからこそカレルにも、読んでいる私にも魅力的なのだろうと思います。
…マジェンカが働きを止められるようになった切欠、最後の人形「パンドラ」の個性はあまりにも分かりません。
容姿が異様、表情がない、同じような存在が何人も居るという表現……
これが、新しいマリエの「投射」ならば、最後の「投射」ならば、「惜しい」と言いたくなってしまいます。
マリエがパンドラを生み出した後にどう生きていくかが私はとても気になったのに。
これでは「どうとってもいいのです」といった終わり方をした物語のようではないかと。
救いを求めて、『自分に存在しない理想』を表現しようとしたということ。
何故これがマリエを壊す直接の理由になってしまったのでしょうか。
マリエの「マジェンカを除いた人生が、マジェンカと真逆だった」からこそではないかと思います。
「マジェンカの礎の自分」がどうしようもなく受け入れられない、ある意味看護婦よりも自分の好みに合わない「自分」だったからこそ忘れようと頭が働いて、自分にはそんな部分などないと思い込むに至ったマリエ。『マジェンカ』を意識的にしろ無意識的にしろ、これまで避けてきたのかもしれないマリエ。
だからこそマジェンカが生まれてしまったというのは、皮肉な話ですね。
この話の救いは、「自分の欠点」「なくしたい所」に対しても、マリエが愛着や理解をある程度持っていたことだと思います。
幼子にもマジェンカにも、…看護婦と山羊にも。
恐れや哀れみや共感や、理解したからこその恐れがそれぞれに対してあります。
それらが妙にリアルで、ご都合主義っぽさがなくて、えげつない、けれど惹かれます。
マリエの「自己嫌悪」を表現される為に生み出された看護婦が、山羊や幼児を慈しんだような、大切にしようとしている描写はマリエのそれと対極的な気がして、印象的でした。
「頑張って積んだドミノが崩れた」からこそ、マリエは全てをなくそうとしたのかもしれません。
だからこそそれから新しく創造するものが、今までの世界と似ているけれど、自分は居ない世界なのかもしれません。
同じように積み上げたかったカレルはマリエを束縛しつつも、殆ど全てを理解していました。見方によってはよき後援者に見えなくもありません。けれど彼女らしさを求めるあまりに、彼女は開いてはいけない扉を開けたのでは…?とも思えます。
マリエがいつか許せるときがきたら、赦せるときがきたら、
マリエのその目は人形のそれではなくなるのでしょうか。
その「マリエ」は慈母か、諦念か、それともやはり悩み苦しみ続け、そして大量に人形を生み出していくのか。
私は、また彼女に人形を生み出してほしいと思います。