本の感想・考察、日常で思ったことなどを書いていきます。
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色の閃光が駆け巡っていくような印象を受けた。
怒りと暴力の赤、嘘の黄色、欲望と願望と希望の緑、生命力の青、恐怖恐慌の紫、死と悪意の黒、疲れの灰、正義の白、安らぎのピンク…
この世は「色」に、「イメージ」「見方」に満ちている。
その見方、イメージを変えることで自分を優位にするのが「想師」の力であり、
そのイメージの根底が何かを把握しないままに、それでもそのイメージ内のルールを「信じ」ることで適合し、自分の力にすることは、同じイメージ世界で戦う話である『pet』と似ているようで違う。
「イメージ世界」は、「見方によるリミッター」を外す行為であり、
そこでは強いものが弱く、弱いものが強くなったりと
先入観が他の人間のものと入れ替わるような面白さがある。
「人を殺すのが嫌だ」と同じように主人公が言っている場合でも、
世界観によって それがどう見られるのかが異なる、という現象の
「世界観だけを切り替える」ことが想師の力であるように思う。
だが、「印象、イメージは人によって状況によって変わる」ということの面白さはそれに留まらず、「ある視点で見れば負けでも、違う視点で見れば勝ち」「見る角度によって、強大なものがとてもちっぽけに転ずる」ことを想起させる。
何を信じるかは、何を望むかで決めるという意思の強さは、
自分を守る盾になり、相手を傷付ける武器にもなる。
「信じる」ことが人を支える助けることもあれば自縄自縛の元になることもある。
本作の中で、望まないのに信じざるを得ない状況に追い込まれた「赤鬼」は相手を傷付け、自分をも傷付ける例証の一つとなっているように思う。
視界が憎悪に染まっている、全てが赤く見えている、という表現は比喩ではなく、生々しい現実として迫ってくるのだ。
一つの視点でしか、見られないということは行き場も逃げ場もないことと近しい。
隠喩こそが現実になるという事象は、ドンキホーテに似た滑稽さと
夢が現実になることの不気味さを内包する。
また、隠喩こそが表に出るならば、その代わりに引っ込んでしまうものもあるだろう。
「想師」が大きな、抽象的な視点でものを見ればみるほど、その傾向は強くなる。
だからこそ、主人公は「唯一絶対」足る、彼女を求めずにはいられないのだろうと思う。
彼女の「白」は、無垢の白ではなく、あらゆることを内包し得る白だ。
だからこそ、良い意味で変わらずに居られる。
あらゆる色が目まぐるしく殺到する中、唯一立ち止まれる。
他の人よりも視点を大きく変えることができる「想師」だからこそ、
本能的に彼女のような存在を求めるのではないだろうか。