人間の業とは野生なのか理性なのか。
十五少年漂流記のようでない、理想的ではない、そこらに居るかもしれない
十五人の彼らが通った生きる為の道は泥と血に塗れている。
少年が沢山居る。
それぞれが特性を持っている。
皆帰りたいと思っている。
しかし無人島でも生きる術を見付ける。
彼らはそれに手を伸ばす。
ほら貝はそれを律する為の象徴だ。
白いそれと甘い果物、自分以外の仲間の存在は彼らに希望を与えるように見える。
だが無人島は甘くない。
いや、一見甘い部分もあるかもしれない。
だが甘い果物の部分だけでは人は生きていけないことの体現のようにして、
敢えて一部の少年達は血と汗と泥と肉に塗れに行くのだ。
人の本能とは何だろうか?
生物として生身で居る場合人で居ることは正解だろうか?
人は何日人で居ることに耐えられるのだろうか?
救いだったはずの「迎え」はいつから違うものに代わるのだろうか?
最後の展開は、顔の無い大人達が「もう悪戯はおしまいだよ」と言いに来たような感覚を与える。
踊り狂った側の子供達のした「自立」は所詮遊びでしかないのだ。
一時期の快楽と長期の安らぎと、どちらを取ってもどちらにも抗いがたい苦痛の部分がある。
けれどピギーはどこまでも理性的であろうとした。
蠅の王に取り付かれたサイモンは何か違うものを手にした。
手に入れてはいけないものを手にしなかったということかもしれないが。
では、蛮族を装った彼らには何があるのだろうか。
ほら貝を捨てた彼らには何が残るのだろうか。
獣のようになっていた少年達よりも、
ある意味獣からふっと人に戻った少年達のほうが怖いと思う。
彼らの業とは野生なのだろうか、理性なのだろうか。
そしてそれは少年ゆえのものなのか、大人にも存在するものなのか。
大人たちならできていたかもしれない判断をできない子供達は、
大人たちだからこそできない大きな変化をやってのけるのかもしれない。
だが、大人の居る世界に面すれば、また少年に戻ってしまいそうな脆さは、
どちらが彼らの本性なのだろうと思わせる。
他人のせいか自分のせいか相手のせいか第三者のせいか超常的ななにかのせいか、
どれだと言ってももやもやした気持ちが残る。
蠅の王は必死にどちらかに味方しているわけではなく、
ただそこに居る。追い払う方法などないが、どこまでも追いかけてくるわけではない。
だからこそ人間が全ての責任を負うことになる。
私は安全地帯から彼らを見ている。どうしてそこでそんなことを言うのかと
どうしてそこでもっと我慢できないのだと言いたくなる。
自分が実際にそこに放り込まれたらどうするのかなんて、分かりようがない。
読者は読者である限り、そこでは責任を負わない。
けれど身の回りには蠅の王が、骨の頭が無数に隠れているのかもしれない。
私達はそこで何をとっているだろうか。
何が自分達の本性か見た記憶はあるだろうか。
そして私達はいつどんな時に、この本を読んだことを強く思い出すだろうか。