建築は雑学です。つまり境界線を越えたつながりが多数あります。
けれど建築は雑学ゆえに、収斂するための器、枠組み、軸がないと
収拾がつかなくなりかねません。
境界線。
それに付随するものはプラスイメージか、マイナスイメージか。
それはあるべきか、ないべきか。
境界線の役割とは何か。
考えたことを少しまとめたいと思います。
頭悪そうなというかものすごくまとまりの悪い文章ですが・・・
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収斂と発散。
制約と開放。
境界線を作ること明らかにすること と 壊す・溶かす曖昧にすること。
それぞれの行の両者は、
「境界線」というものの有か無かのイメージと重なるように思います。
この二つはどちらも重要な概念だと思いますが、
学校で議論をした際私は左側(前者)をよく擁護したので
一先ずはそちら依りの文を書きます。
◆端、収斂を作るための境界線
囲碁で喩えるなら、
一つの石を何もないところに放り込んだらそれは発散の前兆です。
一つの石を周りに何かある所に入れたら、それは収斂の前兆です。
局地戦は「素人碁のもの」という字をどこかで見掛けたことがあります。
最初の内は大きいところをとっていく、つまり骨組みを作ることが必要だからです。
けれど、先に進めば進むほど境界線、端の処理をきちんとやることが重要になってきます。
1目2目の差を気にするということというより、
「端をきちんとしていないがために踏み込まれすぎて大惨事になることを防ぐ」
「決着を着ける」
「端の処理をすることで、今まで見落としていた発展の可能性を見つけられる」
これらのためです。
次に発展していく可能性というのは、交流の中で生まれることが多いですが
関係・交流というのは何も「譲り合う」ことだけで生まれるわけではありません。
時にぶつかり合い、時にお互い踏み込みあい、そこで非常に面白い形の展開になります。
後にはダメだらけの荒れ野原が残ることもしばしばですが
勝ち負けだけを重視するのではなく、「何が面白いか」を考えると、
人と人の関わりとして
境界線を薄くすることも、
また境界線を築くことも、
どちらも可能性を生み出す存在として重要だと思います。
囲碁の話は一旦ここで終わりにします。
◇切りをつける為の境界線
ここで、区切りをつけるというのも境界線の一つだと考えると
いかに身の回りに区切り、境界線が沢山あるのか分かります。
決断も境界。組織も境界。個人も境界。
境界があるからこそ、成り立つものがあります。
しばしば、丘のように中心は間違いなくそのものだけれど
それ以外はどこまでが丘なのか曖昧・・・というものもありますが。
読んだことがないのですが、「境界線の哲学」という本が気になっています。
その説明文の言葉を少し引用します。
境界線とは。
しばりであり、差異を作る。それから自由になるべく、ボーダーレス化が進んでいる。
けれど、見えにくいものを見えやすくする為には境界線が必要。
…なあなあでやるならば、境界線がなくても構いません。
けれど、人生でも何でも「選択を迫られる」時は境界線を作り、
その差異を見詰めなければなりません。
手術なら、病巣はどこまでか。切り過ぎてはいけない、残し過ぎてもいけない。
派閥争いなら、攻撃する相手はどこまでか。厳しすぎてはいけない、甘く見すぎてもいけない。
どこからがよくてどこからがダメなのか。
それは人の運命を、文明の行き先を大きくも小さくも変化させます。
境界線とは法律、ルールと呼び変えてもいいかもしれません。
境界線を無くすということは、相手にある程度譲歩、同化することです。
境界線がないから、歩く道は遮られることがありません。
けれどその分、とらえようとしてもぬるぬると逃げられてしまう可能性があります。
境界線を、遮り、縛るもの、弊害としてだけ見るのではなく
その効能についても着目する必要がありそうです。
◆目を凝らして見る境界線
「境界線」をパーソナルスペースの類と結びつけて考えてみると
これは「気遣い」のツールにも成り得ます。
ここからは入ってはいけない
とか、
仲間に入っていいのかと訊く
というのは自分から相手のことを気遣い、
相手のスペース、相手による境界線、を重んじる言葉でもあります。
(自分が排除されることを認識するのが嫌というのもありますが)
この場合、境界線はむしろ求められます。
曖昧な態度を取る、濁す、見ない振りをするーという行為への対極と言えるでしょうか。
境界線とは「行為」への「指標」にもなりうるのです。
◆縛られること
しかし、指標が行き過ぎると、それに縛られ過ぎると、見えにくくなってしまうものもあります。
以前スピノザの話を読んでいた時に「分野について区切らない」という一節がありました。
分かれているもの、分野は考え方という大きな塊を別々の側面として見ているとする発想で
様々なものが繋がると思うこと自体が新たな発展につながる、という言葉からは
他人同士が繋がる「ボーダーレス化」による発展とはまた違う、
自分の中でのつながりというものを連想します。
◆人との関わり
では、それらを一旦区切らねばならない場合とは何か。
結局ここに戻ってきました。
人は、人と関わるときに相手がある程度まとまっていると認識しているからこそ
相手を「個人」と捉えやすくなります。
相手の個性があるからこそ、相手に対する言い方や呼吸が掴める。
自分の個性があるからこそ、相手に対して何か思う、相手に対して思う自分をも思う。
そこには自他の区切りがあります。
けれどそれは必ずしも不快なものではないと思います。
また、境界線の外にあるのは他人の領有地とは限りません。
領海の外が必ず領海とは限らないように、誰の場所でもないところがあります。
だからこそ、境界線とはピリピリ、相手への牽制というだけではなく
自分を形作るものともなりうるのだと思います。