以前哲学の授業で、 マルブランシュが
デカルトの「我思うゆえに我あり」≒「物を思うこの精神だけは実在」に
それはちょっと違うんじゃないのと物申すところのさわりをやりました。
「自我の流動」について、少し自分の頭を整理のために書きます。
物を思っているこの精神とはどの精神か。
過去の自分か新しい自分か。
自分に「こうあれ」と望む自分か望まれる自分か、「こうあれ」に逆らう、どうにも抑えられぬ自分か。
他人の心なんて完全にわかるわけがないとはよくいいますが、
自分の心だって完全にわかるわけがないんですよね。
本音と建て前だって、建て前自体をそもそも作ろうと思ったのは自分なわけで、
本能と理性ともいいますが、理性だってある意味本能から作られたわけで。
衝動とじっくり考えた末に出たこと、というのが一番近いかもしれませんが、
そのじっくり考えたことだって、何か今までになかったような出来事が起こったら
一気に価値観が切り替わってしまい、今までじっくり好きだと思っていた分
嫌いだと思ってしまうことだってありえるわけです。
でも、自分を語れるのっておそらく一番語れるのは自分なんだと思います。
他の人のほうが語れるとか、よく見ているとか言われることもありますが、
確かにそういった部分もありますが、
一番リアルタイムで、一番身近に見ているのは自分なんだと思います。
分析・把握をできるかどうかというのは別ですが。
だから、自分を把握するのに大事なのは周りに居る様々な考えの人と、
自分への見解、他のことへの見解、他の人自身の自己解釈 における情報交換なのかなと思います。
どれも自分。どれか一つでも切り捨てたら、おそらく自分ではなくなるし、
自分の力では(完全な忘却をしない限り)切り捨てることなどできないのだと思います。